壮大!働き盛り三代で一巡する焼畑輪作 |
「元県立農業試験場長」 古沢 典夫 |
戦後、農業は、工業の技術革新を取り込んで、生産性も大幅に向上してきましたが、資源の浪費や、科学物質等のマイナス資源の蓄積、農薬や科学肥料等の自然環境への影響など、様々な問題も併せ持っていました。
これら環境保全の問題は世界的な課題でもありますが、かつての日本に資源循環型システムの経験や知恵があったのではないかと思われます。
その中で、今回はかつて北上山系で行われていた焼畑の資源循環についてお話します。
この焼畑は北上山系では「ソリ」と呼ばれ、県内各地に残る、草里、曽利田、橇、鼠入などの地名は、焼畑放棄地「草荒−そうり」と考えられます。
焼畑では主に、大豆、小豆、アワ、ソバなどの雑穀が栽培され、小農の主食を補う目的のものでした。
軽米町周辺では80年という長いサイクルの焼畑が行われていました。
ここでは、まず製炭後の雑木林を焼畑として起こし、1年目には大豆、2年目にはアワを作りこれを3回(6年)輪作し、さらにソバを3年ほど連作します。
この後は、「ソリ」と呼ばれる耕作放棄となり、植生は遷移し、ススキからアカマツ林の時代(45年)、アカマツの伐採後は、雑木林の時代(25年)へ戻っていきます。
焼畑〜跡地からは、自給穀物のほか、飼料、草肥、資材などが供給され、これら有機物は馬を中枢として有機的に循環していきます。
一方、上記の有機物が多投される畑地(常畑)ではヒエ−コムギ間作大豆の2年3毛作が行われます。
この輪作は、非常に効率的に土地資源を活用しているばかりでなく、病害虫や連作障害にも強く、地力の維持が十分に図られる仕組みであることが、現代の科学から明らかになっています。
この頃の農法は、現岩手県軽米町で書かれた畑作農書「軽邑耕作鈔」(日本農書全集第2巻)によって確かめることができます。
著者の淵澤圓右衛門は、一貫して有機物の土地還元を強調し「絶対に焼くな」と主張し、限られた自給有機物を作物特性に応じて使い分け、配分することに苦心しています。
戦後、急激に変わった現代の農業とは、自給的生産と商品生産という大きな違いがあり、これらの変遷も必然性があり、自給体系に戻れと言えるものではありません。
しかし、現代の「単年度の現金収入のため」という一元的な発想に対し、2年3毛作時代は、輪作(X)の中での多収(Y)、食物は美味で健康的(X)であり、その範囲での多収を図る(Y)。といった二元的な発想です。食は働く者の明日の糧であり、子供を大きくし、老人を長生きさせるものでなければなりません。
いま、二元的発想に現代的意義を見出すとして、多収Yより重要なXとして何をとるべきでしょうか、私は、農業の資源を後世・子孫に伝えること、それも優れた資源のままで残すこと、その配慮をXとすべきだと考えます。
この80年のサイクルは人の一生より長く、働き盛り3世代での完結する壮大なものです。
熱帯雨林では、焼畑は自然破壊として非難の対象となっていますが、80年で地力を戻す「北日本型焼畑」は小農の主食確保という必然性と、その過程において数々の精緻な計算、先祖の体験や創意工夫がこめられています。
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